日々あれこれ2

ビーグル犬と管理人の日々の様子


ピー父の日記

  1. 2007/05/26(土) 20:59:35|
  2. 徒然・・・・
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<ピエトロパパの日記より>

(2007年5月12日)
 「何だ神田の明神様のお祭り」

 12日に、神田明神(神田神社)の二年に一度の例大祭(本祭り)を見てきた。
去年のような本祭りではない年を陰祭りというが、陰祭りには神輿(みこし)は出ない。
今年の本祭りでは二百基以上の町神輿が渡御(巡回)するという。
 各町神輿の宮入(みやいり)は13日で、この日は朝十時から
一番近い外神田の神輿から宮入を始め、二百基全部の宮入が
終了するのは午後六時を過ぎてしまうだろう。
 その間、明神大鳥居前から坂をずっと下って、秋葉の中央通りにも、
宮入を待つ神輿がずらっと並んで待っている。そのさまは壮観である。

 12日は町神輿の宮入はなく、神幸祭といって、神社付属の一の宮、
二の宮、三の宮の三つの神輿と神官たちが静かに厳かに神田町内を巡幸する。
しかし、宮入はしなくても各町内で町神輿は渡御している。
 神田明神社の神体は三柱あるが、一の宮が大国主命、三の宮が平将門で、
二の宮が何だったか忘れた。古くからの江戸っ子の将門贔屓は、
江戸っ子らしい反骨精神の反映である。

 江戸の庶民に親しまれた明神様である。江戸市中の氏子は神田明神と
日枝山王権現社に二分されていたという程の勢力を誇っていた。
 どちらの祭も、各町が趣向を凝らした山車(だし)や屋台を出し、
その費用は莫大になったため、両祭は一年おきに交互に執り行なわれた。
 それぞれの祭礼の時は、早朝から何十台もの山車に神輿が加わり、
江戸市中を練り歩き、江戸城内にまで入って吹上御殿で将軍や
仕えの人々の上覧に供した。そのためこの両祭は天下祭と称された。
 俗に江戸の三大祭は、

  神輿深川、山車神田、だだっぴろいが山王様

と称された。
 因みに山王祭は六月十五日、神田明神祭は九月十五日であった。
明治になってから神田明神祭は五月に執り行われるようになった。

 私にとって12日の見物の目玉だったのは、朝の三神輿の発輦の時に
先導する50人以上の鳶頭衆の唄う木遣りの生の大合唱を聞いたことと、
ほとんど一日中境内の舞台で演奏されている神田囃子の生演奏を聞いたことである。

 午前七時半に着いて昼過ぎまで明神境内で神田囃子に聞きほれていた。
神田囃子保存会の人達のボランティアだが、好きで一年中練習しているだけあって
老いも若きも実に上手である。神田囃子は日本の祭囃子の雛形で定番である。
 私は初めて聞いた時から一種の非常に懐かしい感情に襲われて、
それ以来、何時間聞いても聞き飽きない音楽になってしまった。

 木遣りは鳶職人の労働歌だが、江戸木遣りの唄い口の粋さは
いなせな江戸っ子が伝えた江戸独特のものであり、江戸芸の冴えたるものである。
 兄木遣りと呼ばれる一人の音頭取りが唄い出して、続けて多くの弟木遣り側が
音頭を受けて唄うが、江戸木遣りを多人数で合唱する時、その粋さは、
他に比較するものが無いほどである。

 午後から、せめて、威勢の良い町神輿の渡御の写真を撮っておこうと思って、
万世橋から中央通りを神田駅の方向に歩き、知り合いが参加している
鍛冶町二丁目(通称「鍛冶二」)の神輿が練っている場所に行った。
 鍛冶二の神輿の写真をたくさん撮って、運良く知り合いにも遭遇し、
その人の案内で「鍛冶一」の神輿のところにも連れて行ってもらい、
有力者に紹介されたりして、鍛冶一の神輿が練っているのを
たくさん写真に撮ってきた。

 祭りの喧騒の中にも、江戸時代に掘削された掘割である神田川は
いつもと変わらず静かに流れていた。

     神田川 祭りの中を 流れけり   万太郎
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